ソウル⇄トウキョウ ホドリとガンホ先輩

今までに書いた文章を時々投稿していきます。
これは2012年に韓国行った時に書いた雑文に、新たに知ったことを少しつけ加えたものです。
この頃韓国映画にハマって以来、見る映画の半分以上が韓国映画になってしまいました。
そして両国関係が悪化し始めた昨年末と、自分が生まれて以来史上最大に悪化していた今年の夏、なぜかまた惹きつけられるかの様に、韓国に訪問しています。


【ソウル⇄トウキョウ ホドリとガンホ先輩】(初稿2012/6/2 改訂2019/10/25)

2012年に25年ぶりに韓国へ行った。 前に訪れたのは1987年、中学の修学旅行だった。翌年にオリンピックを控え、ソウルの街は、国の威信をかけての大突貫工事真っ最中、いたるところであのオリンピックマスコット、ホドリ君がにっこりしていた。
空港から市内へ向かうバスから見た、ハングルに時々漢字の混じる看板の風景は、海外初体験の中学生の胸を騒がせた。

旅行は10月で、11月末の大韓航空機爆破事件の直前だった。あの事件を未だ知らずとも、大韓航空機は恐かったし、着陸の瞬間は冷や汗ものだった。調べてみると韓国が大きく民主化したのが1987年とある。
映画『1987、ある闘いの真実』によれば、6月には激しい民主化デモが繰り広げられていた様で、今にして思えば、時代が激しく映り変わっていく最中に訪れたのだな〜と思う。当時はそんな世間の事情なんてまるで解らなかったけど。

韓流ブームをまったく無視して2000年代を過ごしてしまったけど、今のソウルの様子を知りたくて、旅行前に10本くらいたて続けに韓国映画を見た。
『殺人の追憶』(2003/ポン・ジュノ監督)では時代設定がまさに1986〜87年。押し寄せる民主化のうねりの中、ある田舎町で実際にあった連続殺人をテーマにしている(この犯人は2019年になって別件で捕まっていた殺人犯と同一人物だと特定された)。
劇中に度々出てくる拷問の様子は、当時民主化運動の引き金になった、拷問により命を落とした学生運動家の事件を想起させる。前近代的な捜査法から脱却出来ず、犯人を取り逃がしては苛立ちを募らせるガンホ先輩の姿は、駆け足で開けてく時代の波に取り残された人たちの焦燥感を表していたのかもしれない。

『オールド・ボーイ』(2003/パク・チャヌク監督)では、主人公が監禁されるのが1988年から2003年の15年という設定になっている。冒頭のシーンでは、警察署内の壁に何気にホドリ君のポスターが貼られている。劇中、15年の時間を表現するニュースのサンプリング映像が早回しで差し込まれる。金大中と金正日の歴史的な南北首脳会談、アメリカの911テロ、それに日韓共催のワールドカップ、私の脳裏にも焼き付いているおなじみの映像だ。
時代によって15年の重みは異なるだろうけど、1988年から2003年の15年間は韓国にとって、とても分厚い時代の重みがあったことと思う。
等々、今更だけど、2000年代前半の韓国映画の面白さにすっかりはまってしまって、旅行後1ヵ月で30本以上怒濤の様に見た。これについて書き始めるときりがないのでまた今度。

さてさて、そんな予習をして訪れた韓国。想像していた通り、25年前とはまるで違っていた。
当時、空港に降りた途端に漂った朝鮮人参の匂いも、今回はまるでしなかった。
よく、外国人が日本の空港に降り立つと納豆の匂いがするなんて話も聞くけれど、韓国と同じく、今の日本もそんなローカルスメルはなくなってしまっているのかもしれない。それとも自分の嗅覚が落ちただけなのか。
ユニクロ、アディダス、ラッシュ、ボディショップ、スターバックスカフェ、等々の外資系店舗が華々しく立ち並ぶ明洞の通りを歩いていると、日本の通りを歩いている気分と何も変わらない。通行人の顔も似た様なもんだし…。これが噂に聞くグローバリゼーションってやつ? 均質化ってやつ? でも、そんな大型店舗の傍らで、あいかわらず安値の衣類を売るアジェンマの屋台もたくましく、寂れていくばかりの日本の商店街と比較するとちょっと寂しいものはある。

中古レコード屋さんでPATTI KIMという人のLPを買ってみた。検索すると60年代から活躍している在米の大御所女性歌手。金正日も好きだったということで有名な『別離(イビョル)』という曲も入っている。曲によっては、松尾和子のムード歌謡の様に聞こえてなかなか良い。むこうでは演歌のことをトロットというらしい。
夫が買った、韓国ロックの父、シン・ジュンヒョン、ヒストリーCDの一番古い曲は1958年。朝鮮戦争が終ってまだ5年目に作られたこの曲は、少しカントリーなテイストなのだけど、こういうポップスって、当時どのくらい普及していたのだろう…。

『大統領の理髪師』の冒頭で、浜村美智子も歌った『黄色いシャツ』が流れていた。
この映画を見て、1960〜70年代の韓国の空気感をうっすら垣間みることが出来、自分と同世代の人間も、軍事政権下の抑圧的な空気の中で育ったんだということを想像してみた。でもその傍らで、日本と同じ様にかどうか解らないけれど、たぶん極々普通に大衆歌謡は流れていたのだ。

例えば日本の戦中の人々や行動を想像してみた時、当然自分が生まれるだいぶ前のことだから、どこか他人事みたいに、今の日常や日本人と切り離して考えてしまいがちになる。けれど本当はたいして変わらず、ヒョッとしたことで簡単に今に通じてしまう、同一ラインの上の出来事だったのだと思う。世の中に浸透しているイメージには、希望や願望が含まれたズレがいつもつきまとうから、常に補正をかけて想像してみるのは大事なことだと思う。
おそらく韓国もしかり。60年代生まれの監督は、『大統領の理髪師』を、少し寓話的に描くことで、その暗い歴史も決して日常と切り離されたドラマチックなファシズムなんかではなく、日常の隣りにちょこんとあって、そこに自分も周囲の人間もあたりまえの様に生きていたのだというニュアンスを、今の若い人や外国人に対して、伝えたかったのではないか。
だからまるでおとぎ話の様な設定なのに、妙にリアルに感じさせる。

ちょっとのスパイスの分量の違う、似た様なスープがあって、同じ「アメリカ資本主義」という調理法で調理したところ、火加減とか、沸騰のタイミングとか、蒸らす時間に微妙な差異があったものの、出来上がった料理は一見したところ似ている。
韓国と日本は、そういうものの様に感じた。
だからどこか、パラレルワールドみたいで気にかかる。ありえた別の自分の姿をマジックミラー越しに垣間みる様な、何だか不思議な気分。 通りすがりの旅行者には、今眼前にある街並が、まるでずっと昔からあるかの様に映ってしまうけど、注意深く観察すると明洞のはずれの路地裏には、旅行者の誰も見向きもしない様な寂しい一画もある。
おそらく最近小さな売店を立ち退かせて出来たのであろうその更地は、ビルの建設を控えてひっそりと佇んでいる。
90年代初頭の新宿南口にも、こんな風景があった。80年代後半の東京には、そういう場所がもっとたくさんあったと思う。
ヨーロッパと違って、アジアの街はいつでも変化の最中にあって、その渦中、得られるものと失われるものの狭間で、小さな物語がひしめきあいながら語りかけて来る。

開発の最中、資本主義を謳歌している様に見えていても、やっぱり一番日本と違うのが、北朝鮮の存在と兵役の義務。北朝鮮との境界、DMZ(DeMilitarized Zone:非武装中立地帯)のツアーにも参加した。板門店ツアーは、残念ながらやっていなかったので、第三トンネルツアーに参加した。これは、北朝鮮が昔、南侵略のために掘ったトンネル。確か、地下73mの深〜いところをダイナマイト&手彫りでコツコツ掘ったそうな(!)何が彼らをここまで駆り立てたのだか全然理解不能だけれど、目的はともかく、これだけ頑張って掘り進んで見つかった時にゃ、さぞやるせなかっただろうになぁ。

で、展望台から北朝鮮も見た。目立った建物がほとんど何もないとこなのでどこからが北なのか一見しても分からない。ただ一本の道に、送電線か何か、鉄塔が北へと続いて建ち並んでいて、その鉄塔に色が塗られているところまでが韓国なんだそうだ。
近くてものすごい遠い国を肉眼で見て、とても不思議な感覚だった。

帰って来てまた韓国映画を見続けている。『JSA』(2000/パク・チャヌク監督)では、訪れたDMZ地帯が舞台になっているのでとても興味深かった。ガンホ先輩は北朝鮮の中尉。
『グエムルー漢江の怪物ー』(2006/ポン・ジュノ監督)は、最高に面白かった。『殺人の追憶』でも思ったけど、ポン・ジュノ監督は先輩の使い方が上手い。ガンホ先輩は、ベタな好々爺的アジョッシよりも、中年と青年の中間の微妙なラインの、コミカルな役柄が一番映える、と私は思う。金髪でまるで父親失格のダメあんちゃん、だけどいざという時には無茶なパワーを発揮する、というたまらなく魅力的なキャラクターを演じている。

漢江はソウルの魂だ。今度韓国に行った時には絶対漢江クルーズがしたい!っと強く思ったのだけれど、同じことを考える人は多い様で、ネットでもそういう記事が書かれていた。記事によると、やはりここ数年の間に限ってもソウルの発展はめざましく、この映画のロケ地も既に豹変していて見いだせないとのこと。
たかだか6年前の映画なのに!?残念っ!(2019年8月に初めて汝矣島訪問、グエムルのオブジェがあり歓喜しました) 新宿武蔵野館で上映中の『青い塩』(2011/イ・ヒョンスン監督)まで、ガンホ先輩を見に出かけたのだけれど、こちらは抱擁力のある中年引退ヤクザ…、さすがに先輩のラブストーリーは見ていてちょっと照れてしまう。

過渡期を過ぎて今更韓流、「『オールドボーイ』が良かった!」なんて嬉々として話したら、映画好きの友人に「何を今更」って笑われちゃったけど、いつも人より少し遅れてしまう。
でも、少しスープが冷め始めた頃合いってのいうのも、なかなか良いものだと思いますよ。おでんのスープは冷める時にこそ、よりよく具に染み込むものらしいし。等と書きながら、ふと思う。たぶん私達も、昭和を振り返りながら、戦後民主主義と高度経済の長い時代を、今更精一杯体に染み込ませているんじゃないかと。

今までは、立ち止まる時間もなかったし、立ち止まろうともしなかった。
浅羽通明氏は『昭和30年代主義』の中で、東京オリンピックで壊された街並に言及し「「戦前・戦後」というよりも「輪前・輪後」のほうが、時代を画する境目だった。」という橋本治氏の史観を紹介している。確かに空襲で東京の街は破壊されたけど、その後の復興された風景は戦前の街並の復元だった。しかしながら、戦争の記憶をひきずったその風景もろとも消し去ろうと、日本人が合意の上で本格的に街を壊したのが、東京オリンピックだったという論なのだ。なるほど。
また、「昭和三十九年のオリンピックを、1970年代前半の田中角栄内閣による日本列島改造と、1980年代末のバブル期の地上げと並べ、三大「町殺し」と呼ぶ」という、小林信彦の史観も紹介している。

ソウルもきっと、日本統治、朝鮮戦争、米軍在留によって壊されたものが数えきれない程あったに違いない。
でもそれと同時に、オリンピックやワールドカップを期に、自ら手を下した「町殺し」もあったことと思う。それは今も続いている。
ただ自国のナショナリズムに対するメンタリティは、戦後の日本とはかなり違っているはずだ。ソウルには、北村エリアの様に、600年の歴史のある街並も、同時に残っていたりして、古い民家のたち並ぶ坂道から、近代的なビル群とNソウルタワーを一望させる眺望は、まるで街が一つの歴史博物館でもあるかの様に、ミラクルなタイムトリップ感を体感させて、何とも言えない気持ちを彷彿させる。
新旧の入り交じり方が美しい街並は、歩いていてもほっとする。
そんな街並に、日本の姿をオーバーラップさせると、ちょっとだけせつなくなって、また左とん平の『続・東京っていい街だな』とECDの『ECDの東京っていい街だなぁ』が脳内にぐるぐる流れるのだ。

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